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小杉展示館(国登録有形文化財)

旧北陸道に面した「小杉展示館」は、地元有志により明治33年(1900)に開業した小杉貯金銀行(後、小杉銀行*)の本社社屋として明治44年(1911)新築された。明治後期で、はやり始めた洋風建築が取り入れられた和洋折衷の土蔵造りである。耐火建築の黒漆喰で塗りあげられたこの建物は、平成11年に国登録有形文化財に指定された。

 

どっしりと風格がある建物は、石積みの腰壁の上に黒く塗りあげられた黒漆喰壁、窓には金属製の防火扉が取り付けられている。又、凝った模様の袖瓦下は、白壁で仕上げられている。

室内は、1,2階とも当初の姿をよくとどめており、飴色のワニス塗りの木部と壁の白漆喰の対比が美しく、格調高い気品ある室内空間となっている。吹抜けの1階天井は、今はクロス張りだが当初は豪華な金唐革紙が貼られ、美しいシャンデリアが輝いていた。(戦時中に拠出された) 2階高には回廊が廻らされ、随所に繊細な彫刻が施されている。

(室内柱の先を細く飾りをつけているところが洋風である)

 

外観は、一見質素だが、室内に贅を尽くすと言った北陸の家づくりに共通した「粋」な日本文化が感じられる建築で、貴重な文化財である。

昭和18年に小杉銀行から北陸銀行小杉支店となり、昭和54年まで営業していたが、同社の新社屋移転を機に、旧小杉町が譲り受けた。町は、一部改修して昭和61年から小杉町民展示館として開放した。その後、平成17年に町村合併により小杉展示館と改称し、市民に親しまれている。

1階 ; 企画展示室、特別展示室(小杉焼常設展示)

2階 ; 展示室(復興小杉焼展示)

日の宮城跡

住所 / 射水市橋下条(日宮字寺山)

中世の城館は、ほとんどが交通の要地に築かれていた。それは、当時の戦国大名が交通路の支配を重視していたからであろう。
日宮城は、旧北陸道(上使街道)沿いの丘陵地帯である日宮にあり、射水と婦負の二郡を支配した神保氏の支城である。神保長職(ナガモト)時代には、本城は上杉謙信の勢力下にある富山城にあり、神保氏は放生津・守山・増山などにも支城を持っていた。日宮城は、これらの支城を結ぶ中継点として重要な役割を果たしていた。
元亀三年(1572)、武田信玄と結んでいた加賀一向一揆と上杉謙信との攻防戦が最も有名である。結果は、謙信軍の完敗に終わった。

江戸時代の資料には、「本丸・二ノ丸・三ノ丸(南ノ丸)」などと記され、複数の郭で構成されていた。規模は、本丸が東西21間(37.8m)、南北7間(12.6m)、二ノ丸は東西16間(28.8m)、南北20間(36m)であった。
個々の郭の位置については、これまで研究から、本丸が丘陵頂部平坦面と考えられている。
二ノ丸、三ノ丸の位置については諸説あるが、最新の測量成果に基づく研究では、本丸の東と南にある一段低い平坦面が、それぞれ二ノ丸、三ノ丸と考えられている。
城の遺構は、開発や崩落が進んでいるものの、本丸などの主要部は比較的旧状を留めている。今は、城跡の一角に日宮社と薬勝寺がある。

日宮城跡縄張り

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寺林瀬兵衛の墓

住所 / 射水市橋下条1422外

寺林瀬兵衛は、小杉新町生みの親である。万治元年(1658)に小杉宿の建設を願い出た人で、下条村瀬兵衛ともいう。
寺林家は小杉新町(現 戸破中町)にあり、後に加賀藩参勤交代の際の本陣となった。
射水郡十村土筆(トムラヅクシ)に以下の記述あり
「先祖、新右衛門.生国ハ美濃ノ国ニテ飛州高山ニ居住金森ノ一族ニ候.天文二十一年八月、下条村ニ罷リ越シ居住候.役儀初代瀬兵衛.寛永十二年(1635)ニ、十村肝煎役(トムラキモイリヤク)ヲ仰セ付ケラレル.後略」
墓は、赤石製(戸室石)である。赤石は加賀藩の御用石で許可が無ければ使えない。墓の背面と側面に刻字がある.
 法名「長寿院安捜慧閑居士」
 没年「延宝五年六月二十七日没 七十五歳」

赤石について

加賀藩の御用石は、戸室石(福光の医王山の石)で赤石と青石があり、この墓と西土寺の赤石門(位牌堂入口)が、赤石である。高岡の前田利長公の墓は青石である。
因みに、江戸幕府の御用石は小松石で神奈川県湯河原町の産である。