小杉新町と小杉左官
小杉新町
● 明暦4年(1658)5月
下条村清兵衛(十村・寺林氏)が加賀藩(郡奉行所)へ、小杉三ケ村と戸破村の間の畑地や野毛地(すすきやかやなどの生えている荒地)に小杉新町の町立て願いを出し、許されて近在の村から百姓の次男、三男などが出て小杉新町の建設が始まった。
なお、寺林清兵衛の墓が橋下条赤田にある。
同年(万治と改元)12月には現在の本中町から茶屋町までの間に100軒の家並みができた。
町は街道の両側に沿って家並みが連続する町は、道幅は二間であった。
● 寛文12年(1672)
高持百姓が移住し、町並みは諏訪町、白銀町、荒町へと拡充された。その間に作食蔵、砺波射水郡奉行所、高札場、小杉相談所(十村寄合所)、牢屋敷が設置された。
● 延宝2年(1674)
市立てが認められ、下条川水運を利用した商品流通によって商業の発展が図られた。その結果、家数はしだいに増加した。
● 享保5年(1720)・・・家数 320軒
● 天明期(1780年代)・・・家数 401軒
● 幕末・・・450軒を数えた
街道筋名は、本陣(大名、勅使などの宿泊・休憩施設)、旅籠(一般庶民の宿泊施設)、茶屋が置かれ、中町には高札場があった。
十辺舎一九が文政11年(1828)に著した「方言修行草鞋」には、菊屋という評判の茶屋があったことが記されている。
百姓・町人・商人・職人・医者などの家々もあり、
そのなかには、酒造業、質業、薬業などで富を得て千石地主となった開発屋太郎兵衛や
紺屋業で家運を興し、南画をよくし町役人もつとめた紺屋孫四郎がいる。
赤壁酒店は、(諏訪町)は、寛政元年(1789)創業といわれ、その店構えは宿場町の面影を残している。
小杉の左官たち
小杉新町では、江戸時代の寛政2年(1790)には、既に左官職人の技術検定と格付けが行われており、天保4年(1833)には、職人組合的な役割も果たした「左官講」が結成されるなど、古くから「小杉左官」としての組織が形作られていました。
小杉新町の左官職人は、その優れた技術から「小杉左官」として近隣に知れ渡り、明治時代になると、竹内儀七、竹内勘吉、高木義一、竹内甚太郎、山本新兵衛、砂原清吉などの小杉左官の技量の高さが新聞紙上でも取り上げらています。
天保4年(1833)小杉新町の左官たちは、建築関係業の守り神とされる聖徳太子を祀る太子講(たいしこう)を結成していた。
太子講は、大工事の受注、資金融通、福利厚生も行う同業者組合の果たしていました。
小杉の左官たちの中で竹内源造の父、勘吉は左官数十人を抱える竹内組と呼ばれる左官会社を率いていました。
30歳で父が他界すると源造は竹内組を率いて富山県内をはじめ、遠く旧朝鮮銀行大連支店(中国大連市)の大型建設工事にも腕を振るっていました。