鏝絵の名工竹内源造

鏝絵の名人 竹内源造 明治19年(1886)~昭和17年(1942)

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富山県射水市の旧小杉町は、江戸時代から壁屋の町として優れた左官職人を多く輩出してきました。

竹内源造は、小杉左官の中でも優れた左官職人 竹内平右衛門(通称 勘吉)の五男として、現在の射水市三ケ上新町に生まれました。父の姿を見て左官業を志し、小学校卒業と同時に左官職人となりました。
明治34年、若干15歳で初代東京帝国ホテル貴賓室の漆喰彫刻を仕上げるなど、若い頃から才能を発揮し、明治44年(1911)には、25歳で射水郡役所から一級漆喰彫刻士として認定されています。
そして「鏝絵の名人」として全国にその名が知れ渡り優れた作品を沢山残し、昭和17年に56歳で亡くなりました。

大正5年(1916)、父勘吉が没すると竹内組を引き継ぎ、富山県西部を中心に、寺社・土蔵・銀行・公共建築など多くの左官仕事を手掛けました。
また、大正8年(1919)には、弟子や仲間20人余りを引き連れて海を渡り、現在の中国大連市にある旧朝鮮銀行の建築に携わりました。この建物は現在、中国工商銀行大連支店となっており、大連市重点保存建築に指定されています。

↓ 現中国工商銀行大連支店(大連市重点保存建築)

職人気質の強かった源造は、金儲けより良い仕事をすることに執着し、思い通りに仕上がらなかった作品を何度も何度も打ち壊したといいます。また、漆喰彫刻だけでなく壁塗りの仕事においても、4人分の仕事を1人で仕上げるほどの腕前であったと伝えられています。

源造は、決して裕福ではない身の上ながら20人を超える弟子を抱え育て、旅人が訪ねてくると腹いっぱい食事をさせ、誰でも家に寝泊まりさせるような人情味の厚い人物でした。

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小杉左官と竹内源造作品の魅力

伊豆の入江長八をはじめ、全国には名だたる左官職人が知られていますが、その中でも、竹内源造作品の魅力は、何と言ってもその迫力にあります。全長17メートルにも及ぶ日本最大級の鏝絵「双龍」や、壁から60センチ余りも飛び出た旧小杉町役場庁舎の「鳳凰」など、「絵」というよりも「彫刻」に近い立体的な造形となっています。
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源造作品の多くは、目にガラス片や電球などを仕込んだ玉眼としています。また、東京帝国ホテル貴賓室の漆喰彫刻の仕事では、白漆喰に様々な色のビー玉を埋め込んで仕上げたと伝えられており、射水市大江の永森神社にあるニューカレドニアからの帰還者が奉納した絵馬には、彼らが持ち帰ったニッケル鋼を埋め込むなど、技術的に優れるだけでなく、斬新な発想に富んだ作品を多く残しています。