史跡・名所

寺社

砺波・射水郡奉行所(こおりぶぎょうしょ)跡

加賀藩の農民を治める地方の組織(お役所)を郡奉行所(こおりぶぎょうしょ)といった。
砺波郡と射水郡(当時氷見郡は射水郡に含まれていた)が射水郡奉行所に支配されていた。
高岡町・氷見町・今石動・城端は、町として所轄外であった。

郡奉行は、郡の人事、租税、土木及び軽微な裁判を司った。
郡奉行は、はじめ金澤に在勤し、郡方には足軽を駐在させ、郡手代(こおりてだい)に事務を補佐させていたが
寛文5年(1665)、小杉新町に役宅(御貸家おかしや)ができてからは、ここに駐在することとなった。

御貸家(役宅)が東西に建てられ、奉行直属する20人の足軽長屋が建てられ、別に牢屋が一棟建てられていたという。

旧加賀藩本陣座敷

戸破加茂社の境内には、射水市指定の有形文化財「加賀藩旧本陣座敷」の遺構がある。
本陣とは、藩主が参勤交代の折の宿所である。

小杉新町が寛文2年(1662)北陸街道の宿駅に指定され、加賀藩主の江戸参勤交代の通路となったのに伴い現在の戸破中町にあった寺林家(当時下条屋長衛門)は寛文7年(1667)に本陣を命ぜられ、現在の射水市商工会の西側あたりの自宅に隣接して本陣座敷を新築し、江戸末期まで本陣を勤めたのである。

加茂社へ移転する前の本陣座敷については不明な点が多かったが平成17年の増築部分の痕跡調査から、本陣の旧位置で一度改築され、明治22年から大正11年の間、小杉町役場として使われていることがわかった。
その後大正13年に(1924)加茂社境内に移築され、平成19年まで加茂社の社務所として使われていた。

旧本陣の座敷の柱などは、厳選された桧材の白木造りで多くの修復改造が加えられているが、高い釣天井・長押(なげし)・釘隠し(くぎかくし)などは、往時の面影をを残している貴重な文化財である。

旧北陸道一里塚

一里塚は、街道に沿って一里(約4km)ごとに設けられた里程表である。「越中国四郡絵図」に新開発と小杉三ケ村の間に一里塚とみられ、丸印が道の両脇に描かれている。
この三ケの一里塚は昭和36年の第二室戸台風により、大きな枝はもぎとられて僅かに残っていた数本の枝も昭和38年の豪雪により折れてしまい、遂に枯死してしまなどのった。
昭和42年3月枯死した老杉の傍らに榎木の幼苗を植えた、これが現在の一里塚の榎木の様子である。

平成10年、本開発地内で北陸街道の発掘調査が行われた。道幅は役2.7m(九尺)で両側に1.8mから2.8m、深さ40~70cmの溝が掘られていた。路面は、叩き締めた砂質土の上に厚さ20cmの円礫が敷かれていた。
この道を加賀藩の参勤交代の行列が通っていた。行列は2000人余り、多いときは4000人にのぼったこともある。時期は4月が多く、高岡・魚津間は11里30町あった。

注)一里塚は、旅人の行程の目安となるよう、街道を挟んで一里毎に塚(土盛り)を築き、その上に榎木や松などの丈夫なきが植えられ、木陰で旅人が休憩をとれるよう配慮されていた。

手崎加茂社と旧北陸道道標

手崎加茂社の石灯籠には嘉永6年の銘があり、また拝殿には三十六歌仙(柿本人麻呂、紀貫之、小野小町など)の絵馬が掲げられており、天井の絵は一時手崎に居住した水上北來が描いたものと伝えれている。
 また、拝殿には寛文10年(1670)の大手崎村の御印(一村の草高を挙げ、その村に対する収納米の税率を記したもので、藩主の印が押さえている。(明暦2年検地、寛文の村御印)
手崎は、天正年間前田領になる前は、願海寺城主 寺崎民部左衛門の所領であり、子孫喜六郎の館もあったと伝えられている。
戸破村の村立ての時に独立して大手崎村となったとわれており、手崎の地名は寺崎転じ手良崎となり手崎になったとか・・・願海寺城の大手口であったことから大手崎になったとも伝えれている。

手崎加茂社前の分岐点には「右とやま 左いわせ」と刻印した道しるべが建っている。
「右とやま」道は、二俣、願海寺、野町、吉作を経て追分茶屋へでる願海寺街道であり、この街道ができたのは承応(16お52~54)の頃と伝えられ、その頃に建てられたものといわれている。
「左いわせ」道が参勤交代で加賀藩主が通った往還道筋である。下村から東岩瀬へ出る。

下条川船着場跡

杭を打ち、桁を渡し、土を置いたくらいの小さな船着場をコウドウと呼ばれていた。三ケ村の舟着場は、鷹寺橋の下流左岸の広場にあり、この奥に倉庫をニ棟所有していた。
舟着場では、夏の夜映写会や花火大会が催され、放生津潟との間にはポンポン蒸気船が通じており、小学生はこれで越の潟海水浴場へ出かけていた。放生津潟の海龍社の祭りである潟祭りにも舟で出かけていた。ポンポン舟乗場は、現在の稲田木材店の裏辺りであった。