旧北陸道
旧北陸道の往還道筋(藩主が参勤交代で通った道)は、加賀金澤から津幡を通って倶利伽羅峠を越えて越中に入る。
石動・福岡・立野などを経て高岡町域にはいり、千石町、横田町、中島町から高岡市街地を通って蓮華寺を経て庄川を渡り、大門新町・大島地内を経て小杉三ケの一里塚へ出る。
この一里塚から、今は小杉高校のグランドでいったん往還道筋が消えているが、その後旧北陸道の道筋が残っており、三ケ地内・戸破地内を通って手崎加茂社前出る。
この手崎加茂社前のみちしるべ「左いわせ 右とやま」の分岐点を”左いわせ道”を進むと下村(宿場町)から八町、布目などを出て神通川の舟渡しから千原崎を経て東岩瀬へ出る。これが旧北陸道の往還道である。
植え替えられた現在の一里塚
西土寺に残る加賀藩主の位牌
手崎地内に残る道しるべ
なお、手崎地内の分岐点”右とやま”を進むと願海寺・野町などを経て吉作を通り追分茶屋へと出る。
願海寺までが旧加賀藩領で野町から東が富山藩領である。
加賀藩主が、分藩とはいえ、富山藩領を通らず加賀藩領の「左いわせ道」を通った。この「左いわせ道」が往還道筋である。
小杉地区北部の三ケ・戸破地区は、射水市のほぼ中央に位置する。この地は、街道(旧北陸道)と共にその歴史を辿ってきた。
天正10年(1582)、神保氏張は戸破地区東方の「手崎の町」に対して制札を発給し、慶長10年(1605)には、加賀藩二代藩主前田利長が戸破村の久助に市再興の許可を与えている。これらの町・市は、江戸時代の北陸道の前身となる下街道沿いに位置したと考えられる。
江戸時代初期の北陸道は、今石動から戸出・水戸田・黒河を経て呉羽山を超え、五福・富山へ至る経路が用いられていた。慶長14年(1609)の富山大火の後、前田利長が高岡城へ移ると、高岡・蓮花寺・大門・小杉を経て下村・東岩瀬に至る経路が北陸道として整備され、寛文年間(1661~1672)には、藩主が参勤交代で通過する往還筋に定められた。その過程で、北陸道には一里塚や、宿駅が設けられ、公用その他旅行者等への便宜が図られた。
万治元年(1657)、射水郡下条村の寺林瀬兵衛の願い出により、三ケ・戸破両村の北陸道に沿った畑地に100軒分の屋敷地を設けて小杉新町が誕生する。小杉新町は、寛文二年(1662)に、公用その他の旅行者の宿・休憩所、荷物・通信物等の中継地点として街道の拠点となる「宿駅」の指定を受けた。
また、今石動から戸出、中田、水戸田、黒河、中老田を通って追分茶屋からご五福、舟橋、富山へ出る道は、中田往来(三戸田道)とよばれ、加賀藩二代藩主 前田利長が富山城に居住していたころは、北陸道であったが、慶長14年(1609)の富山大火によって、利長が高岡城に移ってから新たな道が整備された。
寛文年間(1661~1672)以降、現在の旧北陸道が往還道筋となり、旧中田往来(三戸田道)は、巡見上使道(江戸幕府の将軍代替わりのおり諸藩を巡視する巡見上使の通った)といわれる道となった。
また、この中田道は、戦国時代には、上杉謙信と一向一揆が日宮(火宮)城で戦った道であり、豊臣秀吉が佐々成政を攻め、白鳥城で陣取ったときに通った太閤山道でもある。